地球が終わらなかった夜

世紀末星は降らず

うつくしいひと

 きれいな人だな。はじめて目にした時に、胸に浮かんできた言葉はそれだった。モデルさんかな、と思った。なにかを諦めたみたいな、でもまだ大きな相手に噛み付く意思を残しているような、黒目の底の見えるまなざしが印象的で、心に焼きついた。

 それから10日ほど経って、きれいな人がモデルさんでは無く、ダンスを生業にしていることを知った。すずきたかひでさんというお名前だった。たかひでさんは、16人のメンバーで構成されたボーイズグループに所属していた。MVを見てみたら、全体の尺の16分の1も映らなくてちょっとびっくりした。それでも、瞬間瞬間に覗く、あの鋭い眼差しが気になって、何度もMVを見た。

 MVだけでは足りなくなって、舞台に行った。ライブに行った。生で見て初めて、この人はなんてダンスが上手いんだろうと思った。決して派手ではないけれど、しなやかで丁寧で、ひとつひとつの言葉や音符を全身で慈しんでいるような、歌詞を身体に乗せて表現するような、そんなパフォーマンスを、好きだなと思った。
 そして、その丁寧さの陰には時折牙を剥く獰猛さがあった。私はその牙に、なぜだかひどく惹きつけられた。たかひでさんのダンスは私に痛みを与える。見ていると、不意に、心の柔いところを深く突き刺されたような気持ちになる。でも、不思議と不快ではなかった。多分、彼のパフォーマンスに、私を、受け手を刺すと同時に彼自身の心臓をも貫くような、そんな内罰的な色が乗っているように見えたからだと思う。この人の、この隠し持ったナイフはなんなんだろう。なんで私はそこに惹かれるんだろう。それが知りたくて、解き明かしたくてライブ会場に足を運んでいた。

 そうしているうちに、はじめは「半クラスは流石に多いって」と思っていた他のメンバーのことも好きになった。グループの届ける曲も、パフォーマンスも、何かに向き合うときの真摯さも好きになった。らんぺいじさんの真摯さは、私に勇気をくれた。

 ここ数年、いろんなことがあって私は画面の向こうや遠いステージの上の他者の人格を信じることに、勝手に信じて勝手に傷つくことに疲れていた。だからたかひでさんのことも、信じないように、傷つかないように、善き人であるという期待を寄せないように細心の注意を払ってきた。
それでも、柔らかな言葉選びや純心そうな瞳の表情を、フラットにかわいいを楽しむところを、何度も信じたくなった。

信じて傷つくのが怖かったから、「推し」と呼ぶのを避け続けてきた。一度でも推しと呼んだら、心の中の大事なところを明け渡すことになる。もし何かあったときに取り返しがつかなくなる。そう思っていた。私は、一方的に眼差しを送るくせに、自分が傷つく覚悟のない卑怯者だった。

 らんぺいじは一週間前に新曲をリリースした。新曲についての指摘や批判は散々Xで語ってきたのでここには書かない。だが、非常に受け入れがたい歌詞だった。どうにか変えて欲しいと思って、SNSに批判の声を載せた。FCの目安箱に投書もした。らんぺいじさんなら変えてくれると思ったから。ファンの声に真摯に向き合ってくれると思ったから。
 だが、変わらなかった。何の答えにもならない「想い」を綴る声明文だけが出た。失望した。心の底から。
それから、批判の声を押し切ってテレビパフォーマンスも公開された。歌詞だけだった方がマシなくらい、特定の思想を、人を傷つける思想を体現したパフォーマンスだった。たかひでさんは、この曲でも瞳の中に黒い反抗の炎を燃やし、言葉のひとつひとつをつぶさに表現する私の大好きなダンスを披露していた。彼の意思がどこにあるのか、それは私には知り得ないことだけれど、ともかくやりきれなかった。苦しかった。

 あるメンバーは新曲のパフォーマンスを指して「これがらんぺいじです」と発信した。ライブMCや有料ブログ内でのファンを選別するような発言も目にした。私の好きならんぺいじは、彼らの真摯さは、どこにもなかった。
彼らの代表曲の中の「この声を枯らす届くまで」という一節が大好きだったけれど、私の声なんか届かなかったんだと、無常感に襲われた。その後、届いた上で無視された事に気がついて、もっと救いようがないなと笑った。

 だから「推し」なんて呼ばなかったんだ。たかひでさんを「推し」と呼ばなかった私は、心を開け渡さなかった私は、やっぱり正しかったんだ。そう思って、それでも私は悲しかった。

最初からずっと信じていないはずなのに、楽曲に対するコメントを求められた際、歌詞にも、振り付けにも演出にも触れなかったたかひでさんに、一分未満の短い動画にみっともなく縋った。縋らずにはいられなかった。彼のブログやインスタに、指摘の声を矮小化するような言葉がない事を確かめては安堵の息をついていた。
 その反面で、こんな事になってしまったのならばいっそ彼の言葉で降りたいと、そう願ってやまない自分もいた。傷つきたくなくてたかひでさんを好きだと、大事だと認めなかった卑怯者の私は、たかひでさんではなく、彼のパフォーマンスが好きなだけだと逃げ続けてきた私は、卑怯者のくせに傷ついて、登った覚えもないものから降りたくて泣いていた。この3日間はうまく眠れなかった。

 該当の楽曲は歌詞、及び振り付けの一部が修正されるらしい。失った信頼や一度ついた負のイメージ、傷ついたファンの心はもうどうやっても戻らないけれど、対応があったことは素直に良かったと思う。
何が変わるのか、何がそのまま残されるのか、作り手やメンバーとの乖離を改めて突きつけられそうで、恐ろしさもある。
 作詞家の思想も表に出た。それを見て、メンバー自身の言葉が欲しくてたまらなくなった。彼らの言葉が賛同できるものであっても無くてもどちらでも構わない。ただ、私に光を見せてくれたのがらんぺいじなら、私に終止符を打つのも、もう一度はじめようと思わせてくれるのもらんぺいじが良かった。多分、私は今夜もよく眠れないだろう。

  私が眠れなかろうが、悲しみにくれていようが、失望していようが、この長い一週間、たかひでさんは毎日ずっときれいだった。 
せめて私の心情に、その美しさが少しでも左右されればいくらか慰めになったのかもしれない。でも、こんなに心が弾まないのに、たかひでさんのかわいさが、分厚い透明なゴムの壁を挟んだように遠くにあって、かわいいと嬉しいが全く結びつかないのに、たかひでさんは初めて見たときと変わらず、きれいで、かわいくて、美しかった。私はその変わらないうつくしさが、どうしようもなく寂しい。